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  • 2013.12.08 Sunday
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上海(4)

上海での度重なる戦闘の結果、日本にとっての数多くの戦蹟が誕生しました。それを見てみます。
 
以下は激戦地です。
 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『上海市政府』

 
「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)より『商務印書館(上海)』

 
「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)より『鉄路管理局(上海)』

 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『上海・京滬々抗甬鉄路管理局』

 
「中支戦線写真帖(武漢三鎮・南昌・入城迄)」(昭和14年10月15日再販 水谷忠次郎発行)より『呉淞砲台を占據せる皇軍の万歳』

 
戦死者を慰霊するモニュメントも多く存在しました。大場鎮の表忠塔はすでに真如駅のところでご紹介しましたが、それ以外のものを列挙してみます。
 
「呉楚風物」(昭和17年7月1日 華中鉄道股份有限公司)より『廣中路表忠塔』

 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『北四川路市街戦死者之碑』

 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『中部地区方面戦没者之碑』

 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『廟行鎮・爆弾三勇士之碑』

 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『江湾鎮・聯隊長林大一少将之碑』

 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『江湾鎮・空閑少佐之碑』

 
この他、「支那蒙彊旅行案内」(昭和16年8月10日 日本国際観光局満洲支部)には「第一次上海事変にて名誉の戦死を遂げた我が海軍の勇士百六十四柱の武勲を記念した日本海軍戦死者表忠塔碑(駅より一粁半)」が紹介されています。
これが上記の廣中路表忠塔と同じものなのか、違うのか、手持ちの資料ではわかりませんでした。
 
そして、これらをめぐるバスツアーもありました。
「支那蒙彊旅行案内」(昭和16年8月10日 日本国際観光局満洲支部)には「尚毎日曜祝祭日には華中バス経営の戦蹟順礼バスが上海神社前より運転されている」とあります。
 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『上海・戦跡見物乗合自動車』

 
上海は以上です。
これで海南線を終えます。

上海(3)

日本関係の建物をいくつか見てみましょう。
 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『上海・日本領事館』

 
「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)より『上海日本領事館』

 
絵葉書「皇軍戦蹟地 江南風景」より『日本総領事館』

 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『大日本海軍特別陸戦隊』

 
絵葉書「中南支名勝」より『日本海軍陸戦隊本部』

 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『上海・日本人倶楽部』

 
ここで上海の広告をいくつか見てみましょう。





上海(2)

上海において日本人が多く活動したのは共同租界の中の呉淞路と北四川路を中心とした地区でした。
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)は呉淞路について「虹口の日本人商店街であつて通行人と車と自動車でいつも混雑殷賑を極めてゐる」と書いています。また、北四川路については 
四川路橋から遠く陸戦隊本部へ連なる虹口第一の大通りで電車バスの交通路である。戦前迄は主として広東商人の商店街でいかがはしい営業もあつたが、現在では日本人の手に依つて目覚しい復興をなし、やがては南京路と対照さるべき繁華街となるであらう。
 
と書いています。
 
「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)より『呉淞路(上海)』

 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『上海・呉淞路』

 
絵葉書「中南支名勝」より『上海呉淞路(日本人街)』

 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『上海・北四川路』

 
「建設に甦る新支那大観 支那事変と無敵皇軍」(昭和14年3月15日 名古屋日日新聞社)より『上海ガーデンブリツヂを渡つて日本租界方面』

 
絵葉書「皇軍戦蹟地 江南風景」より『世界各国人で雑踏を極むる虹口市場』

 
街角の風景です。
 
「江南影像録」(下村正太郎撮影 久米正雄解説 昭和19年12月? 版元不明)より『復興市街ぜんざい屋の店頭』

 
この写真には久米正雄による解説文がついています。 
上海の此処は日本人街虹口。復興した市街を、いち早く彩るものは、内地色の濃い紅提燈を下げた、此の種の食べ物屋である。やきもち、ざうに、ぜんざい。…………その看板を見て、陸戦隊の勇士らは、休日の腹を満たすべく、挙つて進入する。上海には殊に多い黄包車(ワンポウツオ)――北方では洋車(ヤンチヨ)と呼ぶが、此処ではその黄樺色の幌に因んでか、人力車のことを黄包車と云ふ。――の車夫が、羨ましげに見て通る。併し彼等には、汁粉やぜんざいより、饅頭の方がずつといゝに違ひない。昼の紅提燈は静に揺れて、閘北の春風戦塵を忘れしむ…………。
 
絵葉書「中南支名勝」より『ふたゝび甦へる上海の平和色 呉淞路を行交ふ陸・海軍の兵隊さん』

 
絵葉書「中南支名勝」より『ふたゝび甦へる上海の平和色 支那子供と遊ぶ兵隊さん』

 

上海(1)

ここまでの参考にしてきた特別急行天馬号が上海駅に到着します。
 
「呉楚風物」(昭和17年7月1日 華中鉄道股份有限公司)より『上海駅にて』

 
「支那蒙彊旅行案内」(昭和16年8月10日 日本国際観光局満洲支部)に掲載の上海駅のスタンプの図案

 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『上海・北停車場』

 
上海は港町でもあります。長江を利用した航路の他、外洋航路の船も市街地近くまで河を溯って来ます。
 
「建設に甦る新支那大観 支那事変と無敵皇軍」(昭和14年3月15日 名古屋日日新聞社)より『上海郵船埠頭』

 
さて、上海の近代的な都市景観を作り上げたのは日本人ではありません。ですからここでは取り上げないことにしてもいいのですが、やはり上海を象徴するものでもあるので、代表的な部分をご紹介してみます。
 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『上海・ザ・バンドの大観』

 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『南京路』

 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『南京路』

 
「建設に甦る新支那大観 支那事変と無敵皇軍」(昭和14年3月15日 名古屋日日新聞社)より『上海南京路』

 
「呉楚風物」(昭和17年7月1日 華中鉄道股份有限公司)より『南京路』

 
絵葉書「皇軍戦蹟地 江南風景」より『街頭に五彩の渦を巻く上海銀座南京路通り』

 
絵葉書「中南支名勝」より『南京路(大馬路)』

 
絵葉書「中南支名勝」より『上海風景 佛租界の賑ひ』

 
「呉楚風物」(昭和17年7月1日 華中鉄道股份有限公司)より『都城飯店(上海)』


蘇州から上海まで

「満洲支那汽車時間表」昭和15年8月号によると蘇州から上海までには
 
外跨塘―唯亭―正儀―崑山―陸家濱―天福菴―安亭―黄渡―南翔―真如
 
の10駅があります。
 
「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)によると、蘇州―外跨塘間に未開設駅として官[冫賣]里駅が挙げられています。
 
外跨塘について「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)には「蘇州城外東方四粁に位し人口三千、四面湖を以て囲まれ、之に隣接するクリークを利しての船便頻繁である」とあります。
 
唯亭は「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)に「多数のクリークに連絡し人口二万五千、住民は農工業に従事してゐる」と書かれています。
 
正儀は「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)に「町は戦禍少なく駅附近には支那特有の家屋蝟集し」とあります。
 
崑山は「戦前の人口三万」で「事変前までは観光地として知られてゐた」と「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)にあります。しかし、 今事変に於ては蒋介石自身崑山駅に在つて督戦したと言はれてゐるだけに市内の三分の二は兵火を蒙り市内目抜の場所と主要建築物は爆破されてしまつたが漸次復興しつゝある。 と書かれています。
 
「支那蒙彊旅行案内」(昭和16年8月10日 日本国際観光局満洲支部)に掲載の崑山駅のスタンプの図案

 
なお、「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)に『自動車線』として「当駅より太倉に至る十五粁の区間を華鉄バスが通じてゐる」とあります。
 
「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)によると、崑山―陸家濱間に未開設駅として青陽港駅が挙げられています。この駅については「戦前まで夏季になると上海、蘇州市民のために駅前のクリークを利用し遊泳場が開設されてゐたが現在は未開設のまゝになつてゐる」と説明されています。
 
続く、陸家濱・天福菴・安亭・黄渡の4駅については特別な記述はありません。
 
南翔について「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)には「この附近も上海市郊外で戦前は約一万の人口を有し商業殷賑を極めてゐたところであるが今事変の激戦地だけに、大半の家屋は焼失してしまつた」と書かれています。
 
真如は「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)に「大上海市の郊外とも言ふべきところで、今事変前までは、駅附近には上海租界に居住する富裕華人の別荘が櫛比してゐたが、全家屋の半数は空爆或は砲撃のため戦禍をうけ当時の俤はない」とあります。
 
同書には駅の近郊にある第二次上海事変の戦蹟が紹介されています。
大場鎮は「同年(注:昭和12年)十二月二十六日(ママ)に至り完全に占領された」激戦地です。
そこに大場鎮表忠塔があります。「昭和十三年十二月八日除幕式と招魂祭を執行された大場鎮表忠塔は上海戦線に英霊となられた倉永、加納両将軍をはじめ二万の英霊を祭祀してある。尚大場鎮へは上海市内から日曜祭日に限りバスが通じてゐる」と書かれています。
 
「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『大場鎮』


「皇威輝く中支之展望 上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州」(昭和13年8月25日 三益社)より『大場鎮』


「中支戦線写真帖(武漢三鎮・南昌・入城迄)」(昭和14年10月15日再販 水谷忠次郎発行)より『大場鎮占拠万歳を叫ぶ皇軍(十月二十六日)』

 
「呉楚風物」(昭和17年7月1日 華中鉄道股份有限公司)より『大場鎮表忠塔』

 
もう1ヶ所、真如電信局が挙げられています。
「今事変当初我が空軍の爆撃に遭ひ建造物は破壊され僅かに鉄柱のみを残してゐたが、昭和十三年春皇軍の手に依り工を起し之を復旧現在は江南に於ける唯一の無線電信局として活躍してゐる」と書かれています。
 
「華中鉄道沿線案内」(昭和14年8月? 華中鉄道株式会社)によると、真如―上海間に貨物取扱専問駅として麦根路駅が挙げられています。
 
「満洲支那汽車時間表」昭和15年8月号によると、南京発上海行の特別急行天馬号は蘇州を14時50分に出発、上海に16時10分に到着します。所要時間は1時間20分となります。南京発上海行普通列車は蘇州を13時25分に出発し、蘇州に15時45分に到着します。所要時間は2時間20分です。
 
次は上海です。


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